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対談《鈴木邦男のオンラインで語ろう》

家族、朝鮮、そして自分自身

ゲスト ヤン ヨンヒさん(映画監督)


ヤン ヨンヒさんが今度は小説を書いたという。鈴木邦男さんは、ヤン ヨンヒ監督作品『ディア・ピョンヤン』を2度見て、 朝鮮総連の幹部で息子3人を帰還事業で北朝鮮に帰国させた父を描いた、 いくらでも深刻になりそうなこのドキュメンタリー映画を、娘と父との愛情物語にも読める、ユーモラス味をまぶした作品に仕上げた手腕に、 えらく感心していたのだ。小説『朝鮮大学校物語』は、彼女自身をモデルとして主人公に据えた、大学生の青春物語。




両立する二つの世界

ヤン  私が通った朝鮮大学校は朝鮮総連の幹部養成学校みたいなところがあって、自宅が歩いて1分のところにあっても、学生は寮に入らなければといけないんです。全寮制にしなければ、ガチガチの思想教育ができないという事情だと思います。


鈴木  小説中に出てくる「女のくせに」という、あそこが凄かった。



ヤン  朝鮮学校(民族学校)では小学生時代から、目上の人や先輩を敬うように徹底的にしつけられます。でも基本的に男尊女卑社会でして、男の子はデンと座って平気な顔をしていて、女の子は男の子のためにかいがいしく働く。フェミニズムのFの字もない世界でした。


鈴木  儒教の影響かなぁ。



ヤン  在日朝鮮人2世といっても、私なんて大阪の下町・鶴橋で生まれ育ったわけですよ。日本社会で生まれ育ち、日本の学校に通っている同世代の子たちと同じテレビ番組を見て育っているわけです。 だから朝鮮学校でガチガチの民族教育を受けても、日本社会での生活と普通に両立するんですよね。日本文化と北朝鮮流の民族教育が、ケンカせずに両方育つんです。


鈴木  でも日本にいて日本を否定するというのは、難しいんじゃないですか?



ヤン  子どものころから朝鮮学校で民族教育を受けているからといって、みんながみんな「日本なんて大嫌い」「北朝鮮バンザイ」となるわけではありません。 私みたいに、朝鮮大学校を卒業して朝鮮学校の国語教師にまでなっても、心の中では民族教育なるものにずっと違和感を抱いている人間もいるわけです。
バイリンガルみたいなものかもしれませんね。子どものころから日本文化と北朝鮮流の民族教育両方の言葉を聞いて育ってきたから、両方とも“発音”がいいのかもしれません。



進路問題で葛藤が生まれる

ヤン  朝鮮学校に通っている高校生のみんなが、朝鮮大学校まで進学するわけでは当然ありません。 成績が優秀な子は、大阪大学とか早稲田大学に進学することだってあるわけです。大学を選ぶとき「自分はこれからどっちの世界で生きていくのだろう」と決めるときには、当然葛藤が生まれるわけですよ。

ウチみたいに両親が朝鮮総連の幹部をやっていたり、おとなしくて従順な子だったりすると、いろいろな理由で名前をリストアップされて進路の強制が始まります。 私の場合、「ヨンヒはそういう家庭で育ったんだから朝鮮総連に就職するのは運命だ」なんてまわりから言われて「冗談じゃない。なんでそんなことを強要されなきゃいけないんだ」と、すごく反発したことを覚えています。


鈴木  同じような人達ばかりの学校とか組織に行くよりは、まったく在日の人たちがいなくて、そこの中でいろんな発言権を持って北の話をできる方がいいんじゃないのかな。新聞社とかテレビ局に送り込むとか、そういうことは考えないんですか?



ヤン  日本社会に積極的に人材を送りこむという戦略ではなく、朝鮮総連の幹部たちは、自分たちの組織を強くするほうが先だと思っていたんじゃないですかね。


鈴木  取り込まれると思ってるのかな



ヤン  1980年代まで、朝鮮学校に通う子どもたちの人数は、今よりもずっと多かったんですよ。朝鮮総連の支持層もたくさんいました 。私が子どもだったころは、コリアンたちの間で「朝鮮学校は大事だ」「子どものために朝鮮学校を守ろう」「朝鮮学校を守るために、朝鮮総連を守らなければならない」という雰囲気は今よりずっと強かったように思います。



在日コリアンの99%が韓国出身

ヤン  朝鮮総連系であれ民団系であれ、実は在日コリアンの99%近くが「南」出身なんですよ。。


鈴木  へぇ、そうなのかぁ。



ヤン  我が家の両親のように「朝鮮籍」のコリアンであれ、他の韓国籍のコリアンであれ、殆どの在日コリアンの故郷は南(韓国)です。 朝鮮総連は「南を否定して北だけを支持しろ」というスタンスを貫いてきました。先日の平昌オリンピックの期間中は、そのあたりはだいぶ柔らかくなっていましたけどね。

何が起ころうが北を支持するコリアンを、日本社会の中でどれだけ増やせるか。私の両親は、その運動の旗振り役に人生を捧げてきました。 映画『ディア・ピョンヤン』で描いたとおり、私の両親は息子3人を北朝鮮に送っています。 ただ一人日本に残った娘の私も朝鮮総連バリバリに育てば、我が家は理想的な愛国主義的家庭ということになるわけですよ。私は両親のような人間にはなりませんでしたけどね。


鈴木  女の子はあまり帰らないの?



ヤン  そうとも言えません。北朝鮮への帰国事業には、女性も参加しています。我が家の場合、まさか兄が3人とも北朝鮮に行くとは両親も思っていなかったんですよ。 まず最初に、真ん中の兄と下の兄が北朝鮮に行きました。長男だけは日本に残り、ゆくゆく両親の面倒を見てくれるはずだったのに、長男まで北朝鮮に行くことになっちゃった。

当時の朝鮮学校は、帰国事業への反対意見なんてとても言える雰囲気ではありませんでした。 異様な雰囲気の中で「僕も祖国に帰って夢を実現します!」みたいなことを次男が教室で口にしたら ワーッ!と拍手が起こって「それは立派だ」「お前も平壌(ピョンヤン)に渡って社会主義建設に寄与しろ」とみんなから言われちゃったわけです。


鈴木  後に引けなくなった。



ヤン  北朝鮮への帰国船に乗る人は、新潟の赤十字センターに2~3日寝泊まりするんです。 そこで「あなたは本当に北朝鮮に行きますね。もう戻れませんよ」という最終の意志確認がなされるのです。

真ん中の兄と下の兄が北朝鮮に行く直前、赤十字センターの食事が酷いと嘆いていました。 14歳と16歳の少年にとって、まだ日本を出る前の段階で「おなかがすいたなあ」と常に感じる状況は、計り知れない不安を呼んだと思います。 帰国船に乗る前の時点で、兄たちは「これはちょっと予想と違うぞ」と悪い予感に見舞われたはずです。


鈴木  ああ、なるほど。



ヤン  日本にいる今よりもっと幸せな生活がある筈だと思って帰国を決意したのに、赤十字センターのご飯が悪かったら、北朝鮮での生活に希望を持てないですよね。

当時、私の母は商売をしていましたので、週に一回は家族みんなで焼肉を食べたり、誕生日にはケーキを食べたりしていました。 兄たちは音楽が好きでしたから、コンサートに出かけたりビートルズのレコードを買ったりしていたのです。昭和の一般庶民の生活でした。

でも全国のコリアンの中には、段ボールや空き缶を拾って食うや食わずの生活だった人もいたのです 。彼らは「北朝鮮に行ったら豊かになれるらしい」「家ももらえるらしい」「医療費もタダらしい」と希望にあふれた状態で、帰国事業に集まってきました。彼らにとって新潟の赤十字センターでの食事は、普段の食事より豪華だったかもしれません。兄たちは、赤十字センターのご飯をありがたがって食べる家族を見て驚いたと言っていました。兄たちは「オレたちこれでいいのかな」と半信半疑な気持ちで船に乗って、未だ見ぬ北朝鮮に行っちゃったわけです。



鈴木  でも、それは日本赤十字でしょう、日本にある組織でしょう?


ヤン  帰国船に乗る直前に泊まった場所は、すでに北朝鮮みたいなものだったのでしょうね。 兄2人をそうやって北朝鮮に行かせたあと、ウチの両親は長男まで北朝鮮に行かせるつもりはなかったんですよ。 せめて息子1人ぐらいは日本に置いておきたいし、長男は朝鮮総連の仕事をするものだと両親は思っていました。 総連の仕事をしながら、好きな音楽を聞いてクラシック音楽ファンとして日本で暮らす。弟たちはもう日本にはいないから、長男が親の面倒を見てくれるのだろうな。両親はそう思っていたはずです。

そんなとき、金日成(キム・イルソン)主席の還暦の誕生日祝いとして、「朝鮮大学校の生徒200人を金日成主席に“プレゼント”しよう」と企画するわけです。 その200人の中に、当時朝鮮大学校1年生だったウチの長男が選ばれてしまいました。戦時中の赤紙みたいなものです。 でも選抜された200人のうち、半分くらいは北朝鮮行きを拒否しているんですよ。親たちが「とんでもない! 冗談じゃない!」と怒って断っちゃった。



鈴木  拒否する自由はあったんですか?


ヤン  そこはいろいろだと思います。「朝鮮総連に寄付するから勘弁してくれ」というケースもあったでしょうね 。同胞たちに帰国を勧めた朝鮮総連の幹部や朝鮮大学校の先生たちが、自分たちの子をどれくらい北朝鮮に行かせたか。そこはアヤシイところです。 私の両親も帰国事業の旗振り役として、同胞たちに「夢は北朝鮮で叶えろ」と言った筈です。その責任は重大で、総括すべきことだと思っています。 同時に両親は、自分たちが祖国へ送った息子たちの現実に直面し、人知れず家で涙を流しながら悩んでもいました。そんな姿は絶対に他人に見せませんでしたけれど。 特に、組織に指名されて帰国した長兄が精神的に病んでいく中、両親は益々頑なになっていきました。



赤十字や日本政府は厄介払いをした?

鈴木  帰還事業とは、北に行って祖国の再建をするんだという、そういう使命感が大きかったんだと思うんです。自分たちが豊かになろうというのは、あまり考えてなかったんじゃないか。差別のない国で、新しい国家を作るんだという夢や希望の方が大きかったんじゃないですか?


ヤン  それは両方じゃないでしょうかね。北朝鮮が豊かな国ではないのはわかってはいたでしょうけど、当時の日本でのコリアンに対する差別や生活苦は今とは比べられないレベルでした。 「同じ貧乏をするのなら、少なくとも北朝鮮に民族差別はないはずだ」と考えて、日本よりも北朝鮮を選んだ人もいるでしょう。 でも他所からの新参者は、やっぱり差別されるわけです。「お前たちは日本の資本主義を知っているからな」と言われて、危険分子的な差別や監視がつきまといます。



鈴木  僕らは「キューポラのある街」を見て帰国事業(帰還事業)のことを知ったわけですが、日本政府や赤十字は、北朝鮮の実情を知らなくて、帰国事業を進めたんですかねぇ?


ヤン  そこが深刻な問題です。帰国事業は朝鮮総連だけが進めたわけではありません。 あの帰国事業を、当時の政治家も日本のマスメディアも手放しで讃美しているのです。

帰国事業は、①北朝鮮政府②北朝鮮の赤十字社③日本政府④日本赤十字社の共同プロジェクトでした。あれはいったい何だったのか、今からでもしっかりと検証するべきです。 「帰国事業」といいますが、そもそもあれは帰国でもなんでもありません。だって、日本生まれのコリアンにとっては、行ったことのないところへ移住するわけですから。 帰国事業というよりも「移民事業」と言ったほうが正確かもしれません。

帰国事業の「総括」は未だに全然なされていないのです。私は自分の作品の中で、そのあたりのことに触れてきました。朝鮮総連としては、帰国事業の実像についてはフタをしたい。 「ヤン ヨンヒはあんな映画なんて作りやがって。なんで今さらライトを当てるんだ!」とおもしろくないのです。



乙女チックな夢想さえ許されない⁉

鈴木  でも、この小説『朝鮮大学校物語』には、何か愛情がありますよね


ヤン  愛情しかないですよ! なーんちゃって(笑)



鈴木  保守派とか右派的な人だったら、徹底的に朝鮮大学校は許せないと書くでしょうけど、そうじゃない。 僕がこれを読んで思ったのは、僕自身も成長の家の「覚醒道場」という所にいたんですよ。1962年頃から4年間。全国から成長の家の子弟が40人くらい集まってくる。 やはり全寮制なんです。「日本を共産革命から守るんだ」という志で入ってくる。中に幹部候補生もいたんですよ。一生この運動に身を捧げるということで、寮費も全部タダ。 20歳前の人が、よくそういう決定をしたなと思います。確かに、ものすごく勉強してましたけどね。 今から考えたら、不自由だったけれども、ああいう経験があったから、僕は今でもこういう形で勉強できるんだと思うし、朝鮮大学校もそういう面があるんじゃないかな。


ヤン  とても似てますね。私が「将来の朝鮮総連の幹部候補生」と期待されて朝鮮大学校に入ったのは、完全にミスキャストでしたが。



鈴木  小説にも書かれてますけど、朝鮮大学校の隣には、武蔵野美術大学(ムサビ)がありますね。


ヤン  薄い壁を隔てているだけで、朝鮮大学校とムサビはお隣さん同士なんですよ。



鈴木  ムサビには何回か講演に行ったことがありますよ。グレート・ジャーニーの関野吉晴さんが講義を持っていて、僕を呼んでくれたので。


ヤン  私が朝鮮大学校にいたころは、教室の窓から塀の向こうにムサビの校舎が見えました。ジーンズにTシャツを着て、自由な格好で寝そべっている学生が窓から見えたものです。



鈴木  それは自由だと思ったんですか、それとも堕落していると思ったんですか?


ヤン  自由だと思いました。とてもうらやましかったですね。私は朝鮮大学校の中ではメチャクチャ堕落していた人間ですから。



鈴木  他の人は堕落していると思ったんでしょうかね?


ヤン  同じ日本に生まれて、同じサッポロ一番やマルシンハンバーグを食べて、テレビではドラマの「ケーキ屋けんちゃん」を見て、ビートルズを聞いて……。 ビージーズとかボズ・スキャッグスとか洋楽ばかり聞いていた私が、ポンと朝鮮大学校に来ちゃったわけです。 日本人とまったく同じ感覚なのに、「今、私が隣の大学の人とバスで知り合って、恋に落ちたら……」なんて当たり前の夢想をすることすら許されない雰囲気でした。



鈴木  そういうことあったんじゃないですか?


ヤン  残念ながらなかったですね。高校生(大阪朝鮮高級学校)のときは、チマ・チョゴリを着て電車に乗っていましたし。



鈴木  なぜそんなに閉鎖的に?


ヤン  朝鮮学校では毎日の授業で「民族の血筋を守らなければいけない」と叩きこまれていましたし、日本人の学生と仲良しになる機会なんてありませんでした。でもいわゆる「反日教育」は、朝鮮学校の中にはないんです。 強烈な愛国教育はありましたけどね。私は生理的に、愛国教育はとても嫌でした。



鈴木  これはちょっと違うんじゃないかと、ぼそぼそと言う友達はできなかったんだ。


ヤン  ぼそぼそ言う友達はいました。声を潜めて「おかしいやんなあ、アホちゃうか」とか。ミニシアター系の映画を観ている子とか、私と同じように洋楽を聴いている仲間はいました。でもそういう子も、学校に行くとみんな黙ってましたね。



闘って獲得した“自由人”のレッテル

ヤン  朝鮮大学校にいるとき、禁止だったのにアルバイトをやってたんですよ。


鈴木  アルバイト禁止なの? 日本人と話しちゃまずいから?



ヤン  放課後はアルバイトどころじゃないほど、すごく忙しいんです。政治学習とか政治集会とか、夜もずっとスケジュールが詰まってますから。 私はレストランでアルバイトをやってたんですけど、そこにいろんな大学の学生が来ていました。中央大学、津田塾大学、法政大学とか、同世代の学生と初めていろんな話をして新鮮でしたね。 「朝鮮大学校の学生でウチにバイトに来たのはあんたが初めてだ」と、すごくおもしろがられました。


鈴木  それは違反じゃないの?



ヤン  違反ですが闘ってました。1年生と2年生の2年間で十分闘うと、3年生からはレッテルを貼られるわけです。「あいつは人の話を全然聞かない自由人だから放っとけ!」みたいな。


鈴木  やめようとは考えなかったの?



ヤン  親が朝鮮総連の幹部ですし、朝鮮大学校を中退するわけにもいきませんでした。1年生と2年生の間は本当にやめたかったですけど、もし私が朝鮮大学校をやめたら、親やお兄ちゃんに迷惑がかかるんじゃないかと。


鈴木  親思いなんだねぇ。



ヤン  常に集団責任とか全体責任だとかを考えるような教育でした。家族に迷惑がかかるシステムでもありました、とても卑怯だと思いますけど。それに、親には大事に育てられましたから。 でも朝鮮大学校の3年生あたりから「こうなったら卒業まで居座ってやろう」と開き直りました。アルバイトをやったり門限破りばっかりでしたが、文句を言われるのもイヤなので、授業は絶対にサボらない。



楽しみにしていた「祖国訪問」だったのに

鈴木  どうしてヤンさん1人だけ、そういう自由主義者になれたの?


ヤン  中学生や高校生時代の私は、映画館と劇場に夢中だったんです。欧米の映画ばかり観てました。教科書に書いてあることなんて信じる少女じゃなかったんですね。 「北朝鮮は素晴らしい」「帰国した人たちはみんな幸せに暮らしている」と教科書には書いてあるけど、自分の目で見て実感しなければ本当のことはわからない。 だから高校2年生のときの祖国訪問は、とても楽しみにしていました。



鈴木  修学旅行みたいなもの?


ヤン  今は修学旅行っぽくなってますけど、私が高校生だった当時は、幹部候補生みたいな子たちだけがチームを組んで行きます。 朝鮮大学校の学生は卒業旅行として全員が行っていましたけどね。

私が北朝鮮に行ったときには、すでに金正日(キム・ジョンイル)が後継ぎとして登場していました。 朝鮮学校では「この後継は世襲ではなく、たまたま優秀な後継者を探したら金日成主席の息子だった」とか説明していましたけど(笑)。 「新しいリーダーに替わったら、今までみたいに銅像ばかり造るとか、写真におじぎをさせるみたいなバカなことはもう終わるんだ」と、私はとても期待したわけです。 でも北朝鮮を訪問したら、やたらとおじぎばかりさせられるし、息子にまで忠誠を尽くす言葉を言わされる。

父ちゃんと同じことをしてるのって、父ちゃんがやってるより問題じゃないかと思いましたよ。世代が変わっても、相変わらず古臭いことをしてるわけですからね。 ましてや父ちゃんのカリスマ性を全面的に利用していることに、私はすごい拒絶反応を感じました。でも一緒に北朝鮮を訪問している同級生は感動して「私も祖国のために!」とか決意していました。



鈴木  あの小説でいうと「小姑」というあだ名の人みたいなのがいるわけですね。


ヤン  朝鮮総連、朝鮮大学校にとっては、「祖国訪問」は子どもたちに忠誠を尽くす決意をさせるイベントです。 でも私にとっては、すべて逆効果でした。向こうで会った兄たちは北朝鮮の悪口は言いませんでしたけど、時々「現実を見て行けよ」とかボソボソっと言うわけです。 ホテルの部屋でしゃべるとき、私の耳元で小さな声でささやきながら、テレビのボリュームを上げる。盗聴対策ですね。そんな兄たちが、幸せに見えるわけないじゃないですか。 北朝鮮にいた2週間、本当に窒息しそうだったんです。

自分の意見も正直に言えない。「こう考えろ」「こんなこと言うな」と押しつけられる。 「私は2週間で窒息しそうなのに、この兄たちは11年間もどうやって生きてきたんだろう。よくまともな感覚を保っているな」という思いでした。

その長男がおかしい。何かボーッとしている。躁鬱(そううつ)病を患(わずら)い始めていたんです。もともと長男が、一番まともな兄だったんですよ。 北朝鮮で10年以上も暮らしていたら、私でもおかしくなる。まともな人がこうしておかしくなる場所って、やっぱり絶対おかしい。 まともさをなんとかキープしている下のお兄ちゃんたちが、どれほどしたたかに生きてきたのか。

そうしたら「私は兄たちの分まで日本をちゃんと体感して、謳歌(おうか)しなきゃいけない」「兄たちが何も正直に言えないなら、私がちゃんとモノを言えるようにならなきゃいけない」と直感的に思ったんです。 そういう責任感や義務感だけで作品を作っているわけではないですけど、歳をとると「こういう役回りを楽しむくらい、たくましくならなきゃいけないよな」と思っています。



鈴木  ほう、すごいな。


ヤン  朝鮮大学校の修学旅行は2回目の北朝鮮訪問だったので、高校時代の訪問時よりもっとじっくり兄たちと話し合いました。 本当は禁止なんですけど、夜中にホテルを抜け出してタクシーに飛び乗って、親戚の家のドアをトントントンと叩いて中に入れてもらう。 「パルチザン」とか「ゲリラ要員が来た」とか言われて、親戚たちがおもしろがってくれました。



鈴木  面白がってくれたんですか?



ヤン  もし見つかったら問題ですけどね。ああいう経験をいつか何らかの形で発信したいという思いはあったんです。 文学なのか映像なのか、具体的ではありませんでしたが、「こういう体験がおもしろがられるときが来るかな」と思いつつ、 「こんなこと言っちゃダメ」と押しこんでいる言葉が食道から喉(のど)までずっとつっかえて、ゲロを吐きそうなくらい気持ち悪かったんです。

だから『ディア・ピョンヤン』は、喉につっかえていた思いを吐き出すために作った部分があります。 吐き出す作品だともう少しヒステリックになりがちですけど、北朝鮮にはまだ人質(兄やその家族)がいますから、そこは気を遣いました。

「もっと北朝鮮と朝鮮総連を批判するべきだ」とか「甘っちょろい」と言う人もいますけど、ナチスについて今、映画化するのと違うんですね。 北朝鮮の体制はまだ現在進行形だし、兄たち、甥(おい)や姪(めい)、親戚が向こうにたくさんいる。 「“人質”に迷惑がかかるかも」と思いつつ、最大限、彼らが罰せられることがないように気を遣いながら作品をつくっています。

ともかく、平均台の上を慎重に歩くみたいに、ギリギリのところで言葉を選びながら映画『ディア・ピョンヤン』を作ったんです。 その結果ヒステリックな“告発モノ”にならなかったのは幸いだったと、今では思います。 私の作品を単純に、反「北」か、親「北」か、と政治的にだけ判断するのも作品の見方として貧しいと思います。ストレートな批判だけを込めた映画では世界に届きません 。作家の金石範さんは「ディア・ピョンヤン」をご覧になり、「残酷な娘やなー」とおっしゃいました。 笑福亭鶴瓶さんは「あんたの親は、とんでもない娘持って災難やなー」と苦笑いしてらっしゃいました。サスガ解ってらっしゃる、と伝わった実感を得られて嬉しかったです。


鈴木  愛すべきお父さんと娘のストーリーだなと思いました。



ヤン  日本人の作家は日本人のことを書くじゃないですか。でも「なんであなたは日本人のことばかり書くんですか」とは訊かれないと思うんです。 自分が一番詳しい世界だから、ディテールを描ける。突き放して見たときに、うちの家族はおもしろキャラがそろっていて、ネタとしてオリジナリティがある。 そう思ったから、父ちゃんを映画の主役にしたんです。あのステテコ姿と勲章をつけた姿の対比もおもしろいと思いました。


鈴木  娘の前で、お母さんのことをのろけてみたりね。



次は、母を描く

ヤン  『ディア・ピョンヤン』を撮るのに、10年ぐらいかかったんです 。前半5年間は、ラジオで喋ったり、ビデオジャーナリストとしてカメラを持っていろんなアジアの国を取材してニュース映像を提供したりしながら、いつか家族の作品を完成させたいと思いながら撮っていました。 後半の5年間はニューヨークの大学院に行きました。メディアと映像について学びながら、家族ドキュメンタリーは自分にとっての宿題だったので、これをやらないとその次に行けない、と思っていました。

3年がかりで書き下ろした長篇小説『朝鮮大学校物語』の舞台は1980年代です。小説のバックグラウンドは私の実体験に基づいていますが、日本人学生との恋愛を描いた部分は、完全にフィクションです。 「あのときヤン ヨンヒはムサビの男と付き合ってたのか」とか言われそうですけどね。


鈴木  『ディア・ピョンヤン』を撮り、姪っ子のソナの映画を撮り(『愛しきソナ』)、『かぞくのくに』を撮り、自分の大学生活を小説にした。次は何を取り上げるんですか?



ヤン  実は今、母のドキュメンタリー映画『スープとイデオロギー』(仮題)を作っています。 2019年夏に完成予定です。うちの家系がなぜここまで「北」に傾いたのか。韓国を否定して北を選んだのか。一番大事なルーツの部分を描きます。

『ディア・ピョンヤン』は家族と北の関係に絞りましたが、『スープとイデオロギー』で描くのは、うちの家族と韓国の関係です。 当然、1948年4月に済州島で起きた「四・三事件」(※)に触れることにもなります。
【※「済州島 四・三事件」=1948年4月3日に勃発。アメリカが韓国で単独選挙を実施しようとする中、単独選挙に反対する韓国人が「共産主義者」と見なされ、済州島で「アカ狩り」がなされる。 「共産主義者」と見なされた島民は家族まで皆殺しにされ、しかもその虐殺は数年間にわたって続く。一連の虐殺によって3万人が殺されたと言われる】

母は18歳のとき、島民が惨殺されて川が血の色に染まる様子を目にしながら脱出しました。済州島から日本行きの船の底に隠れ、避難民として命からがら広島・呉港に逃げてきたのです。
李明博(イ・ミョンバク)大統領や朴槿恵(パク・クネ)大統領の時代には「朝鮮籍」のコリアンは韓国に入国できなかったのですが、文在寅(ムン・ジェイン)大統領になってから、 朝鮮総連を支持する「朝鮮籍」のコリアンに臨時パスポートが下り、韓国を訪問できるように方針が変わりました。2018年4月、87歳になった「朝鮮籍」の母は、70年ぶりに再び済州島を訪れます。

ドキュメンタリー映画の製作は、資金が自腹持ち出しでとても大変です。そこで3月22日から7月13日まで、インターネットの「モーションギャラリー」でクラウドファンディングを立ち上げました。 「サイン入りの新刊や映画DVD」「映画のエンドロールに名前をクレジット」などプレゼントをたくさん設けています。3000円のコースからありますので、ぜひご協力ください。

https://motion-gallery.net/projects/yangyonghi>

母は陽気な大阪のオバちゃんですし、『スープとイデオロギー』はエンターテインメント性もある映画にします。 2019年秋以降の国際映画祭でワールドプレミア上映をし、日本で公開になるのは2020年ですかね。そのときには、鈴木さんもぜひご覧になってください。


鈴木  それは見たいな、絶対行きます。



(2018年2月20日/写真=初沢亜利)


《プロフィール》

ヤン ヨンヒ(梁 英姫)

映画監督。1964年、大阪市で在日2世として生まれる。両親は総連(在日本朝鮮人総連合会)幹部。兄3人は1971年から72年に、帰還事業で北朝鮮に。 父をテーマに最初の映画(ドキュメンタリー)『ディア・ピョンヤン』(2005年)を制作。内外で高い評価を受ける。 その後、『愛しきソナ』、劇映画『かぞくのくに』などを監督。 3月に、朝鮮大学校生だった自らの経験をもとにした初の小説『朝鮮大学校物語』を上梓。



鈴木 邦男(すずき・くにお)


作家・元「一水会」顧問。1943年福島県郡山市生まれ。72年に新右翼団体・一水会を結成。著書に『憲法が危ない!』『天皇陛下の味方です』『言論 の覚悟 脱右翼篇』『〈愛国心〉に気をつけろ!』、『憂国論 戦後日本の欺瞞を撃つ』(白井聡と共著)、『現代用語の基礎知識 臨時増刊/ニュース解体新書』にも執筆。